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新しいまちを“誇れるふるさと”へ 「まちを使いこなす」那覇市銘苅新都心自治会の知恵に学ぶ

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インタビュー・対談・講演

那覇市銘苅地区は2000年代にまちづくり進んだ比較的新しい市街地です。銘苅新都心自治会は2003年9月に設立され、20余年経過していますが、歴史文化、自然環境、人材・コミュニティといった地域資源、宝を磨きながら、地域を使いこなして、持続可能な地域に向けた取り組みを進められています。 また、学社融合の「銘苅小学校PTCA」や「那覇新都心ゆいスポーツクラブ」など、コミュニティ・スクールの推進や地域クラブなどの新設された学校を核に、地域づくりが展開されたモデル性ある取り組みは、まさにいまホットな話題です。このあたりにも、次世代ふくむ住民みなにとって“誇れるふるさと”をつくっていく秘訣があります。 銘苅新都心自治会会長の前原信達氏からは、様々な知恵が溢れた学びの多い講演をいただきました。その当日の様子をレポートします。なお、前座として、近年まちづくりが進められているつくばエクスプレス沿線開発地区である研究学園エリアの事例紹介が行われました。その後、それぞれのまちの比較を通して、意見交換が行われました。

《講師》
前原信達(まえはら・のぶたつ)
那覇市銘苅新都心自治会 会長
1955年那覇市生まれ、千葉大学大学院工学研究科修了、株式会社都市科学政策研究所(沖縄県内の都市計画・地方計画コンサルタント会社)に立ち上げから参画し、所長上席研究員として35年間勤務。
銘苅新都心自治会に立ち上げから参画し現在3代目自治会長。この間、那覇市本庁管内自治会長会会長、那覇市自治会長会連合会会長を歴任。
教育・文化・福祉・都市計画など多くの委員会、審議会委員を務める。

《前座講演者》
仲村健(なかむら・けん)
ランドブレイン株式会社 国土政策グループ 地域政策チーム所属。
つくば市谷田部地区区会連合会・研究学園支部 副支部長     2名とも所属・役職は2024年2月当時

仲村:本日は前原信達さんをお招きし、会長を務めておられる那覇市銘苅新都心自治会の事例を伺いながら、同じく2000年代に入ってから開発されたつくばエクスプレス沿線、茨城県つくば市の研究学園エリアのような新しいまち、そして広く様々な地域にとって参考になる知見を得つつ、コミュニティの今後のまちづくりの進め方を考えていく時間にしたいと思います。
本日の大きな流れとしてはこちらです。

第1部:研究学園エリアの活動紹介(前座講演)
第2部:銘苅新都心自治会の前原さんによる講演
第3部:質疑応答、ディスカッション

 

第1部:研究学園エリアの活動紹介

 それではまず、つくば市谷田部地区区会連合会研究学園支部の副支部長を務める仲村から、「研究学園支部誕生までの経緯と今後の展望」をお話ししたいと思います。

研究学園との縁のはじまり

さて、自己紹介にかえて、研究学園への想いをもったという私自身の縁の一部をお話します。
私は2001年につくば市内の大学に入学し、都市計画・まちづくりを学んだのですが、鉄道新線開通前後の変化に立ち会ったものでした。

上の写真は標識杭「常磐新線ルート、秋葉原起点58km」と書かれています。下の写真は同じ位置の14年後、橋脚があり、つくばエクスプレスが通っています。まちが変わっていく様子をみながら、大学生という多感な時期を過ごしていました。

上の写真は、研究学園の駅前が右上に駅も写っていますが、駅のほかに何もない状態でした。このようななか、期待もあれば“このままうまくいくのかな”とか“他人事ではいられない”という思いもありました。下の写真はおよそ10年後の状況です。2014年なのでいまから10年ほど前ではありますが、ほとんど今と変わらない状況で、中高層の建物も立ち並ぶ状況です。
次の写真は2005年のまちびらき博覧会「つくばスタイルフェスタ2005」のパビリオンのひとつ「里山住宅」で、現在「つくばスタイル館」といわれている建物です。

さて、研究学園エリアの現在の概要を述べてみます。

研究学園のまちの概要

つくば市全体では25万人口、研究学園エリアはその10分の1弱の23万人程度(R5.12)です。
計画人口は2万5千人、区会数は23で、そのうち研究学園支部に加入しているのは16あります。

上の写真は1989年頃のもので、元々ここは山林で立ち入りができない場所でした。立ち入りができないというのは、航空写真にあるとおり、日本自動車研究所の高速試験路があったためです。下の写真はその20年ほど後になる2008年のもので、つくばエクスプレス開業から3年ほど経過したものです。山林が切り拓かれブルドーザーでならされた土の面がみえる状況です。
その10年後の2018年を比較(当該写真は本記事では省略)してみると、茶色い土のところに住宅が立ち並んでおり、10年という短い期間にまちができていったことがわかります。このような短時間進むのですから、地域社会・コミュニティ形成という点でも「大丈夫かなぁ」と思ったりします。

 もう一つ目を向けたいこと。つくば駅周辺の80年代に概成したエリアと航空写真をくらべてみて、みどりの厚みに差があります。研究学園エリアは、現時点でも道路や緑地といった空間には、ここまでのみどりはないですが、30~40年経過した時にも右のほうのような状況にはならないだろうと思われます。つまり、みどりの景観に関しては、住宅地の植栽など市民が緑を育てるというような活動をしていかないと、なかなか質が上がっていかない。そういう観点からも、今から手を動かし、まちを育てていった方がよいだろうと思っています。

研究学園エリアについては、新興住宅地で“ヨソモノ”の集まりということもあって、横のつながりが希薄な地区になっています。自主防災組織なども未組成の地区も多く、共助で助け合うというよりも、実質自助に依存するという状況もみられます。
そのなか、単区会でできる地域課題解決について、地域で合意形成をしていくということもどうしたらいいのかということで、区長有志があつまって話し合いをするようになってきました。
また、新しい地区であり、歴史文化を感じられる資源が見つけにくいことや、上に述べたような悩みはありながらも、地域活性化の機運は低めという状況でもありました。
単区会それぞれ、単年度当番制での切替わりにより、ノウハウが継承されにくい状況もありますが、他の区会に相談し、悩みを共有してみると、意外と即時に解決できる地域課題があることに気づくことができます。こうした気づきも各区会の負担軽減につながっていくものです。
このように、2016年頃から区長の話し合いがスタートしました。そこから5年かけ、2021年12月に「つくば市谷田部地区区会連合会・研究学園支部」設立に至りました。住居系地域の半分程度には区会が立ち上がっています。この23区会のうち16区会が支部に参加しているという状況です。

研究学園支部の設立

また、つくば市の区会のしくみでは旧6か町村(筑波町、大穂町、豊里町、桜村、谷田部町、茎崎町)の区域をもととした地区連合会のなか、研究学園支部は、谷田部地区区会連合会の下部に加入し、そこに各区会が参加しています。

設立総会は2021年12月にあり、つくば市長にも参加いただきました。この場はオンラインと対面のハイブリッドで開催しました。働き盛りの世代で、海外出張のさなかリモート参加した者もあり、そのような方法を活用していることについても、当時区会ではまだ珍しく、「新たな世代の地域運営の工夫ですね」と市長からも期待のコメントをいただいたものでした。

地域で取り組むべき課題としては様々なテーマがあります。交通、防犯、防災、学び、福祉、環境など。区長がここの支部に参加すれば、様々な地域課題を協議できるゆるやかなプラットフォームというように認識し、区長の皆さん参加いただければと思っています。
また、右の写真は2022年度に都市計画マスタープランの改訂にむけた市民ワークショップがつくば市役所で開かれ、そこに支部役員や有志区長とも一緒に参加したものです。自分たちの地区について、一つのテーブルで議論をすることができた様子を写しています。こうした場に、誘いさわせて参加ができることも、支部の仲間がいてよかったと思うところです。

 研究学園支部の主な活動として、定期的な会議の実施、上位組織・関係機関との協議等を行うこと、そして我々自身大事だと考えている行事の実施などがあります。

支部の行事としては、コミュニティの形成上“お祭り”というような勢いも大事であろうとは考えますが、コロナ禍のなか支部が設立に至ったということもあり、「現実的にできることをスモールスタート」で企画していきたいと考えながら、進めています。

また、ここで研究学園のまちのコンセプトについて説明します。これは住民でも知らない方もいるのではなかと思いますが、施行者のUR都市機構により開発コンセプトとして「森と都市機能の調和から生まれる新しい暮らし方」が掲げられ、水と緑のみどりのネットワーク構想に基づき、地域資源の活用、環境負荷低減の施策などにより、環境共生型のまちづくりが進められました。
現況の地形・溜池を活用した公園づくりや、14haの大規模緑地の保全が実施されていますが、この大規模緑地もその存在を知らない住民も少なくないと思われます。実際に森に入ってみると、都市部に隣接した場所に貴重な自然があることや、レクリエーション環境としてもすぐれています。ただ、存在しているのに意識がそこに向かないため気づかれない。実際に大規模緑地(通称「葛城の森」)入ってみたら「こんな自然の空間があったとは」という声も聞かれます。こうした場所も、より多くの方に認知をしていただき、アプローチでき、身近な自然環境の大切さについてさらに深い理解を得たりすることも大切であると思っています。

地域行事「楽しみながらまちで暮らす、まちで働くリビングラボ」(2022年)

ということで、2022年の行事の例を説明します。支部発足の翌年度には「楽しみながらまちで暮らす、まちで働くリビングラボ」として「アウトドア・ワーキング」と「まちあるき」をしてみたものです。当時はまだウィズ・コロナの状況でもあり〈屋外でやれることを〉という試行をしてみたものです。

アウトドア・ワーキングは平日の催事です。テレワークをただ自宅で行うのではなく、研究学園エリアにはのびのびできるまちなか空間があり、それを活用してまちの良さを体感することを目指しました。
まちあるきでは、まちの点検や、よいところを知る機会という目的で、支部が企画して、それぞれ他の主体と連携して実施してみました。

まちあるきの様子についていくつか写真で紹介します。

  • 旧豊島家住宅―つくばスタイル館の設けられた経緯
  • なぜ研究学園エリアの南側に大きな調節池が存在するのか
  • 前述の大規模緑地にも実際に入って、非常に美しい里山であることを確認し、どうしてこの場所が残されたのか、これをどうしたら活用できるのか

ということを皆さんと一緒に考えたりしました。

次のスライドは、まちあるきをした日の午後は近隣の学校・学園の森義務教育学校の体育館にて大学の協力も得て、講演会とワークショップを行いました。
筑波大学体育系の野外運動研究室の渡邉仁 助教から、身近な環境を活かした自然体験学習の意義についての講演をいただき、11名の参加者の皆さんと講演の感想の共有や、まち・みどり・体験学習ができる環境について、車座になってのワークショップで意見交換しました。

このワークショップの結果をまとめますと、

  • 大規模緑地(葛城の森)を「現代の学校林」のような地域連携型の学校ビオトープとして活かすとよいという意見は、参加者において概ね一致していました。つまり、気候変動、生物多様性、SDGsの時代に、次世代の豊かな学びの機会の場として活用すること。緑地の保全は進めながら、より有効活用が図れるとよいというものです。レクリエーション系・体験系の活動を、学校や我々支部も含む地域団体、大学等の連携により、体験系のプログラムを行っていくということも考えうることが、講演からのヒントとして得られました。
  • 学校との関係の在り方について、自然環境を教材として活用する場として、正課では生活科や総合的な学習の時間、課外活動として科学部や新たな部活動(レクリエーション、体験活動の地域クラブを組成した場合)との連携なども期待されるという意見もありました。

こうしたことについて私たち研究学園支部においても、今後の展開の可能性を探りたいと思います。

 次にアウトドア・ワーキングの模様ですが、研究学園エリア内にある「テーダ松保存緑地」で実施したものです。このテーダ松は雄大な樹木で、見ごたえがありますが、元々ここが自動車研究所の頃に植えられたものであることから、この場所の土地の経緯・コンテクストを伝える資源でもあります。さらに、この樹木が景観資源の一要素であるだけでなく、筑波山の眺望が優れた場所、つまり視点場としての景観も卓越していて、こうした場所で日常的な地域の賑わい・居心地の体験、住民同士の交流の機会を創出するという実験でもありました。

の取り組みの成果をふりかえります。
まず、晴れた平日の3日間くらい実施してみると、最初は遠巻きに覗いてみる住民も、徐々に「何をやっているのですか?」と立ち入り、利用してくれたりして「これいいな、ここで仕事をしてみたい」といって帰っていく方もあり、参加者や見学者からは、今後も再度実施することを望むという声もありました。
企画側としては、まちなかに〈出来事〉をつくっていくことの面白さを感じましたし、来場者からは、地域の人と知り合いたいという出会いを求めているという方もいるということがわかりました。研究学園エリアには、つくば市では「地域交流センター」といいますが社会教育施設としての「公民館」がまだ建設されていません。そのなか、一時的に出現した仮設のまちなか公民館のような場をつくる実験でもあったと振り返ります。
また、嬉しかったシーンとしては、近所に住む0歳児の赤ちゃんを連れたお母さんが「在宅勤務をしているが、家でずっとやっているのは息が詰まるので、こういう催事があることを知ってとてもありがたい」と、とても楽しげに参加されていた姿もあったことです。
このように、スモールスタートながら、手ごたえを感じたと振り返ります。今回の経験をもとに次年度以降の実施も考えていきたいと思っています。

まちの環境資源を点と線で結んでみる

さて、今日(本講演の2024年2月17日)も午前中にまちあるきをし、ここに示しているのと同じようなルートを歩いたのですが、研究学園エリアでもこうして歩いてみると、色々な環境資源がつながっていきますし、子供達がのびのび遊んで過ごせる環境というのは確実に存在していると思います。
例えば、マップづくりを研究学園支部でやってみるとかそういうこともありだとは思います。今日は前原さんともお話しながら、「地域資源をプロットして解説するようなマップを作った方がいいよ」というお話をいただきました。まちあるきの際にはまだ次のスライドのマップをみせたわけではないのですが、ちょうどこのような考え方でまちを捉えていきたい。そして、地域の皆さんと一緒にマップづくりなどをしていけるとよいのだろうと感じたところです。
まちの環境資源を、「点」を結んで「線」にして、「面」にしていく。面的な広がりをもってまちの環境を愉しんでいけるというようなことが大切だと思っています。

地域と学校の連携へ

さいごに「地域と学校の連携へ」ということについてお話させていただきます。
つくば市では、令和7年度末までに、全学園にコミュニティ・スクールを順次導入するということです。コミュニティ・スクールの制度的な詳細について本日は説明しませんが、一言でいうと、「学校を核として地域づくりを進めていくという仕組み」ということになります。そのための地域内で学校や様々な団体との間でも、関係構築をして、まさに今できることを考えていきたいと思っています。また、制度について知ることや、好事例について勉強会等をしていくということは、支部でも進めたいと2023年度の総会の時もお話したところです。そのために本日のような企画に至ったところでもあります。

また別の話題では、部活動地域移行が全国にて進められています。そうした話題に関連して、先進地域の方が学園の森義務教育学校に視察にくるということがありました。ご縁があって、ここにご一緒する機会があり、支部では中川西支部長と一緒に情報交換会にも参加することがありました。
スポーツや文化の活動を通じて地域・コミュニティのウェルビーイングを高められるとよいですが、昨今の地域・学校を取り巻く状況としては、全国的に、部活動はじめこれまで当たり前に考えられていた様々な活動が“前例に倣うばかりでは持続できない”という問題がみられるようになっています。そして、未来のコミュニティや子供達を想うときに、こうした改革の議論を“行政にいわれるままに受入れる”というよりも、可能であれば、地域のコミュニティの側でもこうした議論に参加するということが大事なのではないかと思うところです。
写真においては、錚々たる方々が参加されるなかに、参加させていただく機会があり、とても良かったと思います。

今回講演を銘苅新都心自治会の前原会長に講演をお願いしておりますが、銘苅地区は、地域と学校の連携、むしろ、学社融合(学校教育と社会教育の融合)の観点でも目をみはる取り組みをされてきています。子供から大人お年寄りまで社会教育的なつながりの中で地域づくりをしている新興住宅地です。

那覇新都心ゆいスポーツ・文化クラブのような取り組み、スポーツと文化は、縦割りで分かれるものでもないので、その両方の要素が混ざり合っているような運動も、文化活動も色々あると思います。右上の写真にある組踊のシーンがありますが、文化的な活動もこの学校発・総合型地域スポーツクラブの核となる要素のひとつであるとのことで、今回のチラシにも載せてみました。
その下の写真には、地域の草刈りイベントの後の集合写真、刈払機を前において皆さんにこやかに写っています。“草刈りは煩わしいこと”と忌避するということではなくて、皆で汗を流し身体を動かし、まちの美化できたという成果を共有し喜びを分かち合う、そのことが“共にこのまちに生きている”という実感にもつながりうる。単純ながら、こういうことも地域コミュニティ活動として、多世代・多様な地域のつながりのもと意義がある。こうしたとりくみの秘訣を今日、前原さんからお話しいただきたいと思います。私たちのような2000年代以降に開発された地区にとって、学ぶところがとても多いと思い、お話が聴けることを期待して、楽しみにしています。

 さて、次からは本日の講演会のメイン、前原さんが取り組んできた銘苅新都心自治会でのまちづくりについて伺いたいと思います。よろしくお願いします!

第2部:銘苅新都心自治会の前原さんによる講演 

はじめに

みなさん、こんにちは。前原と申します。よろしくお願いします。
今日は午前中に研究学園エリアのまちあるきをさせてもらって、いろいろ感じることもたくさんありました。まず感じたのが、非常に平たい土地であること、筑波山を常に感じることができること、まだ使われていない土地がたくさんあることなどです。これらは地域の財産なのではないかなと感じました。住民と行政、学校、企業が一緒にやっていくと素晴らしいまちづくりができるように思いました。

先ほどご紹介いただいたので、自己紹介は割愛させいていただき、さっそく始めたいと思います。みなさんはじめて聞く言葉もあると思いますが、

  • 那覇新都心地区 / 銘苅新都心自治会 / 自治会と区会
  • 「3つの宝」と「5つの活動の柱」 / 地域を使いこなす/ 自助力・共助力
  • 新都心ゆいスポーツ文化クラブ / 小学校区まちづくり協議会 / なは市民協働プラザ

これらが本日の講演のキーワードになるんじゃないかと思います。
資料の至るところに登場している天女のイラストは自治会のキャラクターで、帽子をかぶっているのは私です。では本題に入っていきましょう。

那覇新都心地区の概要

まず、那覇新都心地区の位置と地域の概要について説明します。

これは沖縄本島の中南部の地図で、虫食い状に色のついているところが基地です。ブルーの箇所が返還されたところ。ブルー以外のところが現在も基地となっている場所です。
沖縄県の人口は現在147万人であり、そのうちの大体85%近く120万あまりが沖縄本島の中南部に住んでいます。あとはヤンバルや離島に住んでいるということです。
この中南部は100万人都市圏であるけれど、基地が多くあって生活上の移動や防災面で課題になっています。普天間飛行場などの東西は横切ったらとても近いのに、ぐるっと回らなくてはいけない。中南部のまんなかにある普天間飛行場は481haですからだいたい研究学園エリアと同じくらいの広さです。なお、地図の上の方にある灰色のエリアが嘉手納飛行場で1,985haもあります。これはなかなか返還されていません。
私たちの住む地域が赤丸で示した牧港住宅地区跡地で現在の那覇新都心地区です。返還される前は米軍の「牧港住宅地区(牧港ハウジングエリア)」といいました。なぜ那覇市にありながら「牧港住宅地区」というかというと、隣接する浦添市の牧港補給地区(キャンプキンザー)に通う人たちの住宅エリアだったものですから、そのようなエリア名称となっていました。牧港住宅地区には、学校やスーパー、映画館もあればスケート場もありました。
嘉手納飛行場以南の普天間飛行場などの広大な土地は、今後の沖縄県の街づくりをしていく上での大きな財産になっていくと思います。

那覇新都心地区の地区面積は214ha、平均合算減歩率は30%。この地区は、土地区画整理事業が施行され「申出換地」という手法が実施されたところです。自分の土地が住宅地区にあった人が、商業地区に希望したいと申し出ればその意向に沿った換地ができる。そのかわり減歩率は50%に増えますよ、といった調整がされます。また、商業地区から住宅地区に希望する場合はその逆の調整がなされます。真ん中のみどりが伸びているところは総合公園「新都心公園」で18haあります。
これは、県発行のパンフレットですが、みていただきたい箇所は、基地があったとき比べて、返還後は経済効果が30倍以上になっていると記されているところです。今まで、沖縄の経済は基地経済で成り立っていると言われていましたが、そうではなく、返還されて市街化され有効に土地利用された方が、経済効果・雇用効果が大きいということを意味しています。
パンフレット中で私も跡地利用の可能性ということでコメントしているのですが、これからの跡地利用で考えなくてはならないのは、そこに住む人々のコミュニティが形成しやすいような跡地利用計画を作っていく必要があるということです。
具体的に言いますと、現在基地の中に土地を所有しているもともとの住民の多くは高齢者で、基地が開放されて活用できるようになるのは2世の子供や孫の時代になると思います。返還の明確な期日がない中で、若手2世たちは返還後のまちづくりの勉強会を重ねていますが、中には“勉強会しても意味がないのではないか”というような声も出ることがあります。ですが、こうした場や機会を継続して、地域コミュニティや2世のつながりを切らないことが大切になります。
私たちの自治会でも2世の存在や1世・2世の人的ネットワークが自治会を立ち上げる時にも大きな力になりました。

研究学園のまちを歩いてみて

それから今日、研究学園のまちを歩いていて、自然環境を保全している大きな緑地(*1)も小さな公園・広場もありました。これらの公園や広場は地域コミュニティを築いていく上でとても貴重です。特に身近にある小さな公園・広場を多面的に活用していくことの大切さというのは日常的に感じています。私たち自治会は地域の祭りを身近にある小さな公園で行っています。
*1:葛城地区大規模緑地

本講演会実施日(2024年2月17日午前)に実施した研究学園まちあるきのルート(研究学園支部_仲村作成)

もう一つは、新しい街とその周辺の既存市街地との関係ですね、境界部分が閉ざされてしまうとあまり良くないです。その境界箇所のつなぎ方、車の行き来じゃなくても、人や自転車、車イスが行き来できる、防災上の観点からもそのような工夫が必要と思います。今日のまちあるきでもそういった場所があることが確認できました。

地域課題の解決と自治会

次のスライドは、全国的な話ですが、地域コミュニティを取り巻く社会変化と地域課題の確認です。

【現代社会】は、少子高齢化、核家族化、高度情報化が進み、人々の生活様式、生活行動が変わってきたという点です。新都心地域でも例えば、アパート・マンションが増える中、オートロック方式になっていて、なかなか建物の中の入れず自治会のチラシも配布できないとの声もある。
このような中、【地域課題】としては、住民同士のつながりが希薄化、自治会加入率の低迷などが進行し、地域の自助力・共助力が低下、安心安全・地域福祉が不安、協働のまちづくりや住民合意を取ることが困難、ふるさと意識が希薄化するといったことが挙げられます。
なかでも、「住民同士のつながりが希薄化」することや「ふるさと意識が希薄化」するといったことが一番問題ではないかなと思います。つながりができることによって、色々な自助力・共助力がつくし、安心感がもてるということで、とくにこの2つが重要であって、これを取り戻すということで、ほかの点も改善できるのではないかと思うわけです。
ふるさと意識というのは、やはり、ふるさとというのは自分事として、当事者意識をもって地域にかかわることが大切と思います。

ここからは那覇市の自治会の概要を述べます。
那覇市は4つの行政区に分かれています。元々は小さいエリアの那覇と首里、真和志、小禄の行政区があって、4つが合併して現在の那覇市になっています。
首里、小禄については、住民のつながりがつよく、元々そこに住んでいた人の割合も多い。本庁、真和志ついては寄り合いが多いです。ヤンバルや離島などから戦後多くの人が仕事を求めて移り住んでいます。
自治会の加入率は、首里が一番高いが、約27%で30%には届かない。小禄は約17%、本庁約12%で、真和志は10%程度。そのような状況であり、自治会区域図に色がついていないところには、自治会がありません。

つぎに、那覇市の自治会の連合会の構成です。那覇市の「事務連絡委託」を受けている自治会は150あります。連合会に加入している自治会も150でたまたま数字は同じですが、那覇市の事務連絡委託をうけつつも、連合会に加入していない自治会も存在します。なお、連合会は4支部ではなくて、5支部になっていて、市営住宅自治会長会が加わっています。
右下のグラフについては、世帯数が伸びている(2002年12万弱→2023年16万弱)のに対して加入世帯数はゆるやかに減少しています。特に若者の核家族化が進んでいて、同時に高齢者の単身世帯も増えている。そうしたことからも、自治会加入率の減少拡大が進んでいます。

つぎに「つくば市」と「那覇市」の自治会(区会)比較をしてみました。

令和5年12月の数値ですが、つくば市は区会数が600くらいあり、那覇市は全部で150。つくば市はだいぶ区会が多くなっています。区会世帯規模では、つくば市は平均77世帯、那覇市はその倍で平均157世帯。加入率はつくば市40%、那覇市15%、区会費について全部は把握できていないですが、つくば市は研究学園支部へのヒアリングによると、おおむね月額100円~200円、0円の区会もあるということでした。那覇市は本庁支部の場合、月500円未満が50%、1,000円未満が86%という状況です。
それから、公民館・集会所などの活動拠点についてです。那覇市では集まる拠点がない自治会が37もあります。団地や旧集落自治会では集会所が概ねあります。やはり専用の活動拠点が必要と感じています。ないところはアパートの一室を借りたり、小学校の地域連携室などを利用しています。私たちの自治会もプレハブの10名程度入れる事務所はありますが、そこでは集会まではできません。
次に「研究学園エリア」と「那覇新都心地区」の比較です。

面積は、那覇新都心地区が214ha、研究学園エリアは484haで、新都心地区の概ね2倍となっています。人口は研究学園エリアが計画人口25,000人、現在の人口が23,288人(*2)です。那覇新都心地区の計画人口は21,000人ですが、現在の人口はそれを超えていて、24,890人(*2)。人口は両地区ともに大体同じくらいといえます。世帯数は那覇新都心が少し多い11,632世帯(*2)です。
一方、自治会数は、研究学園が23に対して、那覇新都心は8、そのうち半分の4つは団地自治会です。区会の加入世帯数、加入率も研究学園エリアの方が那覇新都心よりそれぞれ2.2倍、2.8倍と大きな数値となっています。ひとつの自治会・区会の平均世帯規模はどちらも120~170世帯となっています。
*2:令和5年12月の数値

銘苅地域の歴史

さて、それでは銘苅地域の歴史について述べていきましょう。

この写真は、現在の銘苅地域を示しています。写真で見ると雑然としているように見えますが、まずこの緑があるところが、総合公園の一角をなす「沖縄の杜」です。総合公園の中の緑地保全エリアです。
銘苅地域は落ち着いた住宅地で、人口は約6,800人、世帯数約3,100。色々な施設があります。“ゆりかごから墓場まで、ここで暮らせるのではないか”と思うくらい便利な地域で、お店や病院・小学校・中学校もあり、高校は隣接してある。働く場所も色々ある。モノレールで空港から30分で到着できる。公共バスは新都心内であれば運賃は100円です。
銘苅地域は、基地跡地につくられたまったく新しいまちというけれども、真っ白なキャンバスではありません。色々な歴史の蓄積があります。

銘苅地域を昔から遡って見ると、沖縄のグスク時代、12世紀から15世紀、本土でいう鎌倉・室町時代にあたりますが、まだ琉球王国は成立していない群雄割拠の時代です。島々のあちこちにグスクができた。銘苅地域にはグスク時代のムラ、ヒヤジョーモー跡が確認されている。その隣の斜面地にはたくさんのお墓が残されており銘苅墓跡群といいます。グスク時代から明治時代まで一つのエリアで墓の変遷がわかることから、これは貴重だということで国史跡になりました。ただ、そのままの状態で残していたら風化して壊れてしまうので、調査の後、埋め戻しています。この崖の上に現在、那覇市立銘苅小学校が立地しています。

次の時代は琉球王国時代、1429年~明治時代初期の1879年の約450年間です。この時代に琉球文化が花開きます。銘苅地域には、湧き水のシグルクガーや伊是名殿内墓などがのこっています。そして、シグルクガーが舞台となった組踊「銘苅子」がつくられました。

組踊というのは皆さんはじめて聞くかもしれません。これはおよそ300年前に玉城朝薫という方によって創作された琉球の歌舞劇です。つくられた背景として、琉球の王様が変わると、中国から冊封使という使節が琉球にやって来て、“あなたを王として認めます”という儀式がおこなわれます。王様が変わるごとに中国から何百人という使節がきます。冊封使一行は風を頼りに船で行き来しますので、半年くらい沖縄に滞在します。その滞在の間、食事による歓待や、飽きさせないように歌や踊りをみせておもてなしをする。組踊はそのために創作されたものです。そして組踊「銘苅子」の舞台が銘苅地域になっているのです。
組踊「銘苅子」の内容は、天女がシグルクガーに降りてきて水浴びするところから始まります。いわゆる「羽衣伝説」で各地にあるお話なのですが、その舞台が銘苅になっている。これは私たちの大きな財産だと思っています。

その後の歴史は、琉球王国が日本に組込まれて沖縄県になって、戦前までの銘苅地域は、のどかな農村集落でした。人口689人、戸数134戸の規模でした。木造茅葺の写真がありますが、サーターヤーといってサトウキビを絞って黒砂糖をつくる小屋です。近くに尋常小学校がつくられ県営鉄道も走っていました。銘苅地域には首里からの寄留人が多く住んで集落を形成していました。教育熱心でスポーツも盛んな地域だったと那覇市史に記されています。県営鉄道は沖縄戦でなくなり、アメリカの統治下でクルマ社会になってしまいました。そして戦後鉄軌道ができるのが、2003年開通のモノレール、愛称「ゆいレール」です。

つぎは、沖縄戦の時期の1944年から1945年についてです。
1944年10月10日に、那覇は米軍の大規模な空襲をうけて市街地の90%が焼かれてしまいました。これを「10.10空襲」と呼んでいます。1945年4月1日には米軍が沖縄本島に上陸し、地上戦がはじまります。司令部壕は首里城の地下にあったのですが、5月31日に陥落します。その後、住民を巻き込んだ南部への悲惨な逃避行が行われ、沖縄での組織的な抵抗が終了したのは6月23日でした。激戦地のひとつが現在の新都心おもろまち一帯です。首里への最後の砦となったシュガーローフの戦いで、米軍も2,600人余りの死傷者と約1,300人の極度の精神疲労者を出しました。それほどの激戦地でした。

そして戦後、銘苅地域を含む一帯の地域は米軍が住宅地として使用します。戦後ふるさと銘苅の地に戻った住民は、1953年の土地の強制接収で再びふるさとを離れていきます。建設された牧港ハウジングエリアには、コンクリート造の平屋住宅、売店、小学校、プール、スケート場等が設けられ約3000人のアメリカ人が暮らしました。沖縄では毎年のように夏になると断水がありましたが、米軍住宅地の中では断水はありませんでした。芝生に水を撒いているアメリカ人に近くの住民が、バケツをもっていって、フェンス越しに“これに水を入れて”という、笑うに笑えない話もあります。そんな時代でした。

牧港ハウジングエリアは1987年に全面返還になります。5年後に土地区画整理事業の工事が着工しました。そして返還13年後に仮換地完了で街びらきをします。銘苅小学校は街びらき5年後の2005年開校です。なお、新都心の工事では、不発弾が1万4千発、捕獲されたハブが約200匹あったそうです。

それでは、いよいよ自治会のあゆみについて説明しましょう。
2003年に銘苅新都心自治会を設立し、その勢いで翌年に那覇市で第1号の自主防災会も設立しました。モノレールが開通したのも自治会設立と同じ2003年です。銘苅小学校は自治会設立の2年後に開校しました。2015年には、地域見守り隊結成、社協サロン登録があって、このあたりから社協や地域包括支援センターとのかかわりが強くなりました。

銘苅新都心自治会のあゆみと世代の特徴

2021年3月には回覧している地域冊子「私たちのふるさと銘苅」を発行しました。ちょうどコロナの時期で、活動が鈍っているときでしたので、自治会とPTCAと小学校で一緒になって作った地域冊子です。校長先生が予算を取ってきてくれました。2021年11月には私たち自治会が、沖縄県優良公民館表彰受賞し、昨年12月に「銘苅新都心自治会20年の歩み」をまとめました。小学校での地域講話や教職員の地域巡りを案内するなど、学校とのつながりが太くなってきています。

銘苅地域に暮らす世代の特徴についてみてみます。
高齢世代になるにしたがって、他の地域からの寄り合いが多く横のつながりは弱いです。若い世代ほど“銘苅が地元”となり、横のつながりが強くなっている、という状況です。
75歳以上というのは、他の地域からの寄合いが多数で、地元出身者は少数です。戦前から銘苅に住んでいた方は80代以上になりますが、そうした1世たちは戦後の土地強制接収により、別の地域に家も造って移り住んでいますので、返還整備後すぐにふるさとに戻って住むということにはなりませんでした。ただ、土地は持っているので、2世の方がそこに住むことはあります。したがって、地元出身者1世・2世たちよりも、圧倒的多くの人たちが外から入ってきているので、地元出身者は少数になります。
そういったことから大掴みでいえば、75歳以上の世代は横のつながりが非常に弱いといえます。どこに誰が住んでいるのかお互いわからないというような状況です。そして50代~60代世代、私たちの世代ですが、自治会立ち上げの世代です。20年前はみんな30代~40代で、そのころ自治会を立ち上げた世代です。この世代は横のつながりは“中”くらい、といったところ。さらに若い30代~40代になると、小学校のPTCA・中学校PTAの現役世代で、子どもを通して横の繋がりは“大”です。そして、10代~20代である小学生・卒業生世代は銘苅がふるさととして育っていますので、横のつながりは“強い”というところです。ですから、今後とも、ふるさと意識をもった世代を増やしていくことが、いい地域になっていく上で重要と思います。

銘苅新都心自治会の活動紹介

それでは自治会の活動を紹介します。
私たちの地域には「3つの宝」があると思っています。

  1. 新しいまちだけど組踊「銘苅子」の舞台がある
    古い歴史文化の舞台がある。小学生による子ども組踊「銘苅子」を毎年小学校の体育館で上演していますが、コロナ以降は中断しています。また旧盆の中日には、シグルクガーでエイサーを奉納したあと道ジュネ―(まちの練り歩き)に繰り出します。年に2~3回、シグルクガーの草刈り清掃もします。
  2. 都心だけど“沖縄の杜”の大自然がある
    ただの大自然”ではない。小学3年生の総合的な学習の時間で子供たちに「沖縄の杜は必要ですか?」「なぜ必要ですか?」と問いかけます。すると、在来植物や多様な生き物が見られるから、と答えてきます。私はそれに加えて、大きな森が毎日きれいな空気をつくり地域に送っていること、台風や大雨の時は水を貯めてゆっくり流してくれる調整池の役割を担っていること、を伝えています。このように、住みよい環境の基盤となる役割も併せ持っている沖縄の杜の大切さを知ってもらうようにしています。
  3. 住みよい地域をつくる“人材”がいる
    新しいまちには色々な団体が生まれてきます。特徴的な団体等としては銘苅新都心自治会、那覇新都心ゆいスポーツ・文化クラブ、銘苅小学校区まちづくり協議会、地域包括支援センターというような団体が立ち上がっています。そして、なは市民協働プラザという地域活動を支援する行政組織もあります。キーになるような地域人材がここに集まっています。こうした人材や地域の宝を活用していくことですね。

銘苅新都心自治会の活動方針である「5つの柱」を紹介します。

① 安心・安全なまちのために
② 美しい・きれいなまちのために

この辺までは、どの地域にもありそうなものですが、私たちの自治会では

③ 地域の人を知っている・つながっているまちのために
④ 楽しい・ワクワクするまちのために
⑤ 地域のことを知る機会があるまちのために
そういうことも掲げています。

まず、「①安心・安全なまちのために」ということで、保安灯の設置や交通立哨、防災倉庫巡り、そして、安心安全マップの作製・配布といったことをしています。安心安全マップはA3判のラミネートにして各世帯に配布しています。地域の危険な場所や人目がつきにくい場所、交通危険場所、標高やトイレ、備蓄があるかなどの地域情報も入れています。注意が必要なのは、学校が避難場所になっていますが出入口が示されていない場合が多いので、私たちは敷地が広い場所には必ず出入口を表示しています。そうすることで、どこが自分の家から近いか自分で避難ルートを考えやすくなります。

「②美しい・きれいなまちのために」については、わかりやすいところでは、草刈りやゴミ拾いです。シグルクガーや学校のまわり、公園などの草刈りやゴミ拾いをしています。
また、花咲かプロジェクトということで、事業費を毎年校区まちづくり協議会に申請して、花植えと定期的な手入れを行っています。水を撒く、草を刈るは、やりがい・つながりづくりにつながります。身近な小公園が大切だといったのは、例えば、「きれいな黄色いユリがたくさん咲いているよ!」と聞けば、家にずっと閉じこもっている高齢者がユリを見に出てくる。家に訪れて見守るということだけでなく、外に出させることにより地域で見守ることがでます。
自分たちで花を植えたり、ゴーヤーなどの野菜を育てたりすることは地域の自助力アップにつながります。災害が起きたときを想定して、身近なところでつながり支えあう力をつけているとも言えます。

「③地域の人を知っている・つながっているまちのために」ということでは、身近な公園で祭りをやったり、運動場でラジオ体操をしたりしています。スライドにあるのは「銘苅はごろも祭り」といって、近くの小さな公園で祭りをやっています。500人以上が参加する祭りですが、まったくの手づくりです。出店をするのもたとえばサッカークラブが遠征費を稼ぐために出店をしたり。出演するのも地域のひとたちや団体が出演します。中学校の全国入賞した吹奏楽や合唱の披露などもあります。

私たちのまつりの一番の特徴は、せっかく500人も集まってくる場なので、地域のキーパーソンを紹介することにしています。校長先生や、民生委員、地域包括支援センター、校区まち協、ゆいクラブの方々などを紹介します。抽選会では景品を配ったりもしますが、景品のなかに防災グッズを入れています。祭りは防災活動の一環として、防災に関心をもってもらう工夫をしています。
夏休みのラジオ体操は、子どもたちの人材育成の場としています。初日だけ、倉庫をあけて、機材を出して、マイクで呼びかけて、子どもリーダーに手順をみせて、次の日からは子供たちに全部やってもらいます。大人たちは見守ることに徹しています。子供たちは、最初は恥ずかしがっていますが、夏休みが終わるころにはとても成長した姿をみせてくれます。学校と連携して、夏休みが始まる前に5~6年生リーダーを決めていてもらいます。4・5年生は子どもリーダーの所作をみているので、次に自分たちが担うという心構えができます。これは子供のリーダーづくりでもあります。きっと、彼らが大きくなった時に、地域や那覇市を担う人材になっていくと思います。

「④楽しい・ワクワクするまちのために」

楽しい・ワクワクするまちをつくっていくために、地域にある団体との連携による取組みを行っています。たとえば、こどもたちも喜んでいる「こいのぼり」は、児童クラブや保育園だとか高齢者の入所している施設の人たちの手を借ります。子供たちも喜んで、自分がつくった鯉を探しに見にきます。
2丁目に「じんじん広場」があります。じんじん「公園」とは言っていないのです。この広場に私たちは名称板を設置したいといったところ、役所は最初ダメだといってきました。総合公園の一部であり、「新都心公園」という正式名称が既にあることが理由です。ただ、新都心公園は相当広いため、子どもたちが遊んでいる場所が特定できません。そこで、協議をしていくなかで、表示板に通称・愛称を載せるということならばよいという話になりました。愛称を決めたり、表示板の工事のために見積をとったりするのは、役所にとって少し厄介そうでしたので、「全部自治会でやります、愛称を住民で決めたり見積をとったり、デザインをするのも全部自治会でやるので費用負担だけお願いします」、と分担しました。それから、銘苅小学校の校長先生に相談し、子供たちに絵をかいてもらうことになりました。“じんじん”というのは沖縄の方言で“蛍”のことを意味しています。前述のように、この辺りは水路があり蛍が見られる地域だからです。名称板の文字は地域に住む書道の先生に書いてもらいました。そういった経緯で、子供たちの絵の装飾もついた「銘苅じんじん広場(新都心公園)」という表示板が設置されています。

「⑤地域のことを知る機会があるまちのために」

これについては、ホタル観察会、地域めぐり、講話などいろいろやっています。コロナも明けて、久しぶりにホタル観察会を再開してみました。20名くらい集まればいいかなと思っていたら、なんと300名もきてくれました。
また毎年、小学校の教職員を対象に地域めぐりをしています。先生方も毎年半分くらい入れ替わりがありますので、校長先生はじめ赴任された先生たちを地域案内しています。先生たちが地域をより良く知った方が、いろんな面で子どもたちにもいい影響があると思います。
また、自治会だより、地域冊子、周年誌等も自治会活動を共有する機会になります。毎月「自治会だより」を発行していますが、以前、住民アンケート調査で「地域の情報は何で知りますか?」と尋ねたところ、8割くらいの人が自治会だよりと答えていました。そうなると、これはやめられないなと思っています。

誇れる“ふるさと銘苅”づくりへ

次のスライドは、私たちの自治会活動~誇れる“ふるさと銘苅”づくり~ です。

地域の誰もが地域を使いこなそう!とスライドに書いていますが、自治会活動で大切にしていることは、先ほども言いましたけれど、“当事者意識”を醸成していくことです。そのためには、ただ活動をしていけばいい、というものではありません。目標や方針を持って、“理論”と“実践”を組みあわせて活動していくことが大切と考えています。
そこで、ステップ1としては、“地域を深く知る”ことです。地域資源を広く確認したり、“地域の人を広く知る”ことで、地域の知恵や歴史、つながりを理解し、地域を深く理解していきます。そして、ステップ2として、自分の関心あることから“参加や参画を積み上げる”ことで、実践による自助力の向上・強化を図ります。するとどんどん活動することに自信がついていきます。“他人事から当事者意識へ”変わっていくことにより「自分の地域」ふるさと意識を醸成します。ここまでくると自助力がついた人たちが多くなっていきます。次のステップ3で、地域全体の自助力が底上げされたことで、地域共助力も高められ、誇れる“ふるさと銘苅”づくりの実現につながっていきます。これが私の“当事者意識”を醸成していくストーリーです。

次に、銘苅の地域コミュニティ活動として特徴的な「新都心ゆいスポーツ・文化クラブ」について簡単に紹介します。

ゆいクラブは総合型地域スポーツクラブですが、設立は銘苅小の開校と同じ時期です。放課後の子どもの居場所になっていて、いろいろなクラブがあります。多様なスポーツ種目もあるし、チア・バトン、そして、三線や組踊などの文化的な活動もあります。活動の場所は小学校のグラウンドや体育館、地域連携室をつかったりしていますが、ゆいスポーツ・文化クラブが学校と連携の上で、施設を自主管理・運営しています。学校と地域の様々な橋渡しをしていて、地域のお祭りでは子供たちの三線で幕開けするなど、様々な参加・活躍があります。毎年2月に行われる「ゆいフェスタ」のときには、子ども組踊「銘苅子」も体育館で披露しています。子ども組踊は一流の先生にご指導いただいています。ただ、20年経って、コロナもあって一旦お休み中であり再構築しなけばという状況です。
ちなみに、子ども組踊の立ち上げですが、銘苅地区では自治会が小学校よりも2年先にできていたので、小学校開校式のときに子ども組踊「銘苅子」をやろうとなりました。この時の予算は校長先生が那覇市からの補助をもらってきて自治会主催でやりました。1年度で終わらせるのはもったいないということで、次年度は実行委員会をつくり文化庁の予算でやりました。それ以降はゆい文化クラブに移行して継続してきました。最初に校長先生が積極的に取り組んでくれたのが大きかったです。

那覇市との協働の仕組み

次は、「小学校区まちづくり協議会」です。

これは小学校区ごとにまちづくり協議会を立ち上げようとするものです。那覇市が力を入れて設立を支援しています。那覇市には36の小学校があり、その校区ごとに顔が見える関係づくりをやっていこうと進めています。自治会がない空白地帯がありますが、校区まち協の設立が進んでいったら、那覇市全地域をカバーすることができます。協議会を構成する地域の団体が、ゆるやかに連携協力することによって地域課題の解決などにつなげていくという考え方です。
現在、スライド右の図のピンク色の13協議会が設立されており、みどり色の準備会とあわせて15くらいが動いています。これまでこの制度が始まって10余年ほど経っていますが約半分くらい進んできたところです。

那覇市が特に力を入れていて、事務局運営費や事業費として毎年80万円ほどを補助し協議会を支援しています。ただ、協議会本体で活動をどんどん進めるというのは困難です。構成団体それぞれが自らの活動を推進している状況に、さらに活動を上乗せすることは避けたいので、協議会そのものは構成団体の連絡調整・情報共有を行うくらいにして、構成団体それぞれが足りないところを補完していく結びつきになるとよいと思います。協議会によっては、部会をつくって、部会に予算を割り振って活動をしているところもあります。予算が足りないところもあれば、予算を消化しきれない協議会もあるなど状況は様々です。
また、スライド右下の図にあるように那覇市の圏域の考え方は、まず4つの行政区があり、その下に中圏域として18の圏域を位置づけ、さらにその下に基礎圏域として36の小学校区があるという構成です。36校区の2校区に1つが中圏域ということで18圏域となっています。現在、包括支援センターや民児協、社協のコミュニティソーシャルワーカー(CSW)などを18圏域で設置を進めているという状況です。

次に、「銘苅小学校区まちづくり協議会」を見てみます。

私たちの銘苅小学校区まちづくり協議会には34団体が加盟しています。毎月の運営委員会では、それぞれの団体が情報を共有し、関係をつくって地域活動につなげています。また、学社融合、地域防災、地域福祉といった分野でテクニカルアドバイザーを置き、講話やワークショップなどでアドバイスを頂いたり、学生を交えた交流やワークショップなどをしています。毎月の会議には全団体出席というものではないですが、参加できるところで、ゆるやかにつながっているというところです。

次に、銘苅地域にある「なは市民協働プラザ」について紹介します。

なは市民協働プラザには様々な団体や企業が入っています。4・5階はIT事業所が入っており、IT産業を支援するインキュベート機能を持っています。3階には自治会長会連合会の事務局やシルバー人材センターなど、多くの市民活動団体と那覇市まちづくり推進課が入っています。特に2階にある、なは市民活動支援センター(まちづくり推進課の一つの班)が私たちにとっては重要です。貸会議室、研修室、印刷、機材貸出、貸事務所、支援ブース、私書箱、貸ロッカー、市民活動に関する相談、情報・交流スペースなどがあります。私たち自治会は近くにあることでとても助かっています。

また、ここではセンター講座、助成金情報、ボランティア情報の人材バンクモデル事業、なはセン情報、入居団体情報などの支援業務をしています。特筆すべきは人材育成のための「なは市民協働大学院」事業です。「なは市民協働大学」で地域のことを知って、大学院でコーディネート力をつけるというものです。大学院を修了したら、そのコーディネート力を活かして、まち協や自治会等で活躍していただくというものです。まだまだマッチングは途上のところもありますが、地域を、那覇市を知り、コーディネート力がある人材を増やしていこうという取り組みです。こうした人材育成機能が地域にあるということが非常に大切だと思います。ここにいろんな団体が集まってきますので、多面的なつながりもできます。

結びに

結びにということで、本日のまとめを話させていただきます。

まず、なによりも地域を深く知るということ。表面的に知るということではなく、深く知ることが大切だと思います。今日も午前中まち歩きをしながら様々ご案内いただいたときに、各所に地域の特徴が見えました。こうしたまち歩きという機会を使って、地域への理解を深めていくことが大切と思います。もうひとつは、地域の人を知るということ。地域を使いこなすためにも重要になってきます。
例えば、子どもたちが、自分たちで何かをやろうとするとき、あの人やこの人と相談してみようと思い浮かぶことや、あそこに行ったら道具が貸してもらえるとか、そういうことが地域でできることが大切です。地域の防災倉庫も多くの住民はどこにあるかわからない、中に何が入っているのかもわからない、ということが往々にしてあります。“防災倉庫がある”ということだけ知っているのではなくて、鍵を開けて中を見てみる。それをつかってみる。期限が切れそうなものがないか確認してみる。このような機会を設けることが大切です。そういうことが“地域を使いこなす”ことにつながると思います。
2つ目は、地域の宝・財産を絞り込むということ。これが、地域づくりの柱を据えることになる。地域のお祭り、芸能などはわかりやすいでしょう。景観資源、つくばでいえば筑波山がありますが、研究学園エリアでは身近にとらえているかどうかはわかりません。身近なシンボルツリーや森林など、有形無形の地域住民の共通の宝・財産を認識し地域づくりの柱に据えることができます。午前のまちあるきしながら、この研究学園にも地域の宝はたくさんあるなと思いました。ひとつひとつ見つけて、最初は点であるかもしれませんが、線から面へつないでいくと、だんだん物語が出来てくる。そういうことが地域の新たな魅力につながり面白いなと思うわけです。
3つ目は、地域の不安要素を改善するということ。不安なことというのは精神的にあまりよくないです。不安要素となる地域課題を共有し、自助・共助・公助で改善につなげていくことが地域の精神的安定ためには大切と思います。
4つ目は、地域を創造的に楽しむということ。公園での祭りや鯉のぼり掲揚など、わくわくする楽しい機会や、面白い創造的な仕掛け、他団体との協働の活動を展開することで、地域づくりの好循環が出来てきます。
5つ目は、持続可能なしくみをつくるということです。これは時代の課題に対応していくということでもあると思います。一番はやっぱり子供たちに向き合っていくこと。子どもたちにはいつも、「次にバトンをつなぐのは、きみたちだよ」と言っています。
それでは、最後に“うちなーぐち”でイッペーにふぇーでーびたん! ありがとうございました。みんなで力を合わせて、素敵なふるさと研究学園エリアをつくってください!

第3部:質疑応答、ディスカッション

ここでは、当日の来場者・オンライン参加者からいただいた質問のなかから、ゲストによる回答を一部ご紹介します。

行政はどういう立場で関わるべきか?

Q. 小学校区まちづくり協議会、こういう器もあるなと思った中で、有機的にネットワークが繋がっている組織ってつくば市にあったのかな?横断的に横串で繋がっている組織って珍しい。この事業の概要を読んだときに、「この事業は〜」抽象的ではあるけれど核心に迫る。子どもたちにおはようと言っても返ってこないのが現状。銘苅ではどうしてこの協議会ができたのか?

A. 行政としては、自治会があるにしても加入率が低い中で、地域課題が行政に入ってくるようにしたい。一方、市民としては中学校単位よりも身近な小学校単位でコミュニティができたらいいなという思いがありました。
銘苅の場合は、当初、小学校の校長先生が、地域にある各団体と情報共有して相互が繋がった方がいいという思いを持たれていて、学校側が呼びかけて「銘苅っ子ゆいまーる連絡協議会」という集まりを持っていました。それから数年して那覇市が小学校区まちづくり協議会というのを広げていくことになり、それではと、発展的に既存の連絡協議会を廃止して校区まちづくり協議会に移行しました。市が運営予算を出してくれたのも大きかったです。
銘苅は3番目に立ち上がった「まちづくり協議会」です。1番目のまちづくり協議会は、自治会がない地域にできていました。10年経ってまだ半分というのは、地域によって設立のハードルに地域性があるわけです。ただ方向としては、1つの小学校区ごとに地域コミュニティとしての協議会は必要です。将来的には、包括支援センターやCSW(コミュニティソーシャルワーカー)も小学校区ごとに配置するなど、福祉分野なども含めた枠組みになるといいと思います。

Q. 研究学園の宝ってなんだろう?
循環できるようなふるさととして思い入れのある街を作っていかないと。大規模緑地があるが、気づいている人もいればいないひともいる。
このまちの歴史の部分は弱いかなと思ったりする。自然の部分は緑地があるけど、地域の連携はこれから。いただいた冊子のように地域を知ってもらうものを作って知ってもらうようにしていくことが大事と思いました。
冊子というのは自治会で作ったのですか?

A. 私が自治会長になってすぐに10周年記念誌を取りまとめました。その時に集めた資料をもとに銘苅小3年生への総合学習で地域の話を継続することを通して、データや資料の蓄積がありました。いずれ地域冊子をつくりたいなと思っていたところ、当時のPTCA会長も、小学校の副読本のようなものが欲しいなと考えていました。2人で話を進めて内容をあらあら作成して校長と相談したところ、是非作ろうということになりました。私は資料をもとにストーリーをつくり、PTCA会長は得意のキャラクターや絵をかいてパソコンでの編集をしてもらいました。作成過程で、小学校3年の先生方と校長、教頭にも集まってもらい全体を通して意見や提案を頂きました。校長先生が教育関係の助成金を申請して印刷費を捻出してくれました。自治会とPTCAと学校の協働で作成できました。今では第2版となっており、学校の授業でも活用されています。

どこから始めたらいいのか?

Q. 大事なことはわかったが、どこから入っていったらいいかわからない。一番大事な子育て世代がこういう会にこない(忙しくてこられない)というのが現状です。

A. 私たちが自治会を立ち上げたのは30代・40代の時でした。この年代は仕事も子育てもいろいろ忙しい時期ですが、そういう世代も含めていろんな世代が緩やかに繋がっていったらいいと思います。集まりには参加できなくても、会費を払っているだけでも協力していることになりますよ。地域の動きを「たより」等で共有し、たまに参加するだけでもいい。面白いことに、地域でホタル観察会や花植えを提案すると、たくさんの親子が参加します。テーマが面白ければ若い人は忙しくても来ます。子どもに花植えを体験させてみませんか?とか、親子でホタル観察会しませんか?とか呼びかけると子どもを連れて参加する。時間もあまり長すぎず、1時間とか1時間半のイベントにすることも大事です。